もうかなり前のことだが、母の友人が自殺した。某大企業の役員になったエリートの夫、いい大学を出て自立した息子たち。その頃は夫婦でマンション住まいをしていて、私も母にくっついて、小さかった子供を連れて何度か訪ねたことがあった。彼女はうつ病を患って精神科に通っているという話だった。病気が悪くなったきっかけは、夫と二人で海外旅行に出かけたことだと言っていた。夫が英語でのやり取りを彼女に全てやらせようとするのがとても嫌だったらしい。当時の私にはあまりピンと来ない話だったが、今はなんとなくわかるような気がする。彼女も家族のためだけに生き、男に支配された人生だったのだ。

昼間からカーテンを閉め切って鬱々として生活している彼女に、夫は元気よく手をあげて「じゃ! がんばれよ!」と言って出社していくのだと言っていた。

そして彼女は自殺した。夫は妻の死後、彼女が書き溜めていた句集を自費出版して友人たちに送り、すぐに再婚した。

母が、彼女の慰めにと用意していたフクシアの鉢植えを渡す機会はなかった。不思議なことに、このフクシアは母の玄関先に置かれていたある時、突然に枯れた。掘り上げてみると、土の下の根がかさかさに縮んでいて、根が先に枯れていたのだとわかった。後にも先にも植物があんなふうに枯れるのを見たことはない。あれ以来、私にとってフクシアは不吉な花になった。

最近読んでいる本に、映画「テルマ&ルイーズ」のテーマはテルマが男の支配から自由になることだと書いてあった。見たのはだいぶ前だったが、そんな話だったか。男に支配される女の人生は洋の東西を問わず、古今も問わずどこにでもあるらしい。

私も男に支配される人生から自由になることを小説にできたらよかったが。

結婚する前からこうなることはわかっていた。なぜ結婚してしまったんだろうとよく考え、そのたびに「子供たちをこの世に生み出すためだった」という結論になる。彼らが健康で自由に生きていくためなら私の人生などどうでもいい。このまま死ぬまで苦しみ続けても構わない。

 

今、死のうかなと思った。しかし明日パートの面接があることを思い出した。この1か月ほどいくつものパート先を求めて応募し、落ち続けている。

なぜ死にたくなるのか。死にたいのは私だけなのか。そうではない。みんな死にたい思いをどうにかやり過ごして生きている。私もこの30年、そうやって生きてきた。それは生きていなければならない理由があったからだ。生きている理由は何か。

・子供たちを育てなければならない

・親より先に死んではならない

・親友を悲しませてはならない

・自殺は少なからずの人々に迷惑をかける

こんなところか。このうち、子供たちはすでに育って私を必要とせず、親もまあ、1人はすでにこの世の人ではない。親友は今もなお大変な人生を生きているから彼女を置いて先に逃げるのは気が引ける。

迷惑は、まあ、迷惑かけるのは私だけじゃないからよかろうと思える。

次に、死ぬ前にやれることがあるのではないかと考えてみる。

・気分次第で私を圧殺する人間を殺す。

・気分次第で私を圧殺する人間から離れて暮らす。

・小説を書いて心の安定を求める。

殺すと、子供たちの人生に消えない傷をつけてしまうため、論外。

1人になるためには経済力がなく、難しい。親の世話を兼ねて実家に帰るのは可能性がある。

小説はもう書けない気がする。どんどん書けなくなっている。体の居場所だけでなく、心の置き場所もなくなりつつある。

以上をまとめると私は親友のため自殺はできない。1人になる少ない手段として実家に帰るべきと言えそうである。

年を重ねるのはつまらないことだ。良いことは特に起こらない。何かを生み出す力を失い、幻想は消えていく。死なない理由は減っていく。人間五十年とはよく言ったもので、確かに五十年くらいが限界なのかもしれない。